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月を観るような観察

今年1月からしばらく休んでいたアレクサンダーテクニークの授業に復学した。
テクニークというと技術という日本語に置き換えられ、型にはまったものや小手先のやり方というふうに解釈されがちだが、それは本当に逆。日本語で言う技術も結局は人の日々の心身の鍛錬から培うもの。アレクサンダーテクニークも、繰り返し繰り返し気付いては忘れ、またおもいだし、そして身につけて行く。仕事や趣味でやっていることの身体の使い方をもっとうまくいくように、そしてより楽しめるような方向に持って行くアプローチの方法の一つ。一つ一つの動作が人によって同じことをしていても全然違うのはなぜだろう?そこには人間関係やその人が生きて来た環境の中で身に付けたその人のものごとへの反応の仕方がある。良い悪いでなくて、自分のそんな癖を丸ごとみつめてまずは肯定してみる。私の場合は歩くということをやってみるなかで、私は過去の膝のけがのこと、色々な連想ゲームに入って不安になってしまう癖があった。「温泉に入っているような」そんな感覚にまず入ってそこから脊椎と頭の関係性を考えてみる。そんな先生の提案で、硬くなっていた首や肩がやわらかい水のような中に骨が浮かんで動かせるようになって、そこに身体の他の部分もついてきた。両方の足の裏が地面に平均に着地している。うまくいかない原因を探そうとすると、うまくいかない方向に向かってしまう。良くなりたいという思いがあれば、本当は何もしなくても身体は良くなる方向に向かっている。自分の身体を信頼する。今ここにいればいつでも生きるエネルギーが流れてくる。自分を観察することも、他の人を理解するための観察力になることを願う。
月に願いをするようなあたたかな観察。なんて、理想ですね!これも連想ゲームだ。ともこさんありがとう!

階段を降りる時

ようやく階段一つ一つを小刻みに足をそろえてから上り下りする状態から、数日後は登る時のみ一足につき、階段一つ登れるという体重移動ができるようになり、後は降りる時、痛めた左膝内側の痛みが怖くて恐る恐る時間をかけて練習しながら歩けるようになり、2日前はアレクサンダーの先生にも少しお手伝いしていただいて、な〜んとなく普通っぽく階段上り下りをさりげなくできるようになってきたのです!階段一つ一つが、こんなに高さのある物だとは思っていませんでした。膝の裏が伸びて行く時に痛みが来るのではないかと怖くなる。もう充分体重をかけて大丈夫な時期に来ている。「頭が動けて、そこに体全体がついてくると思ってやってみるとどう?」そういわれてやってみる。まあまあ大丈夫。でもなんか動きが重い。「まわりをみて、まわりに何がある?前後ろ、左右に頭を動かして、頭は今どこにある?」「あっそうか、忘れてた。ここにあるんだ。」まわりのことも忘れていた。それに気がついたら本当に軽くなってきた。前と同じじゃないけど、ちゃんと階段普通に降りてるよ。先生なりたての、Tさんありがとう!研修生の時から「歩く」を追求して来た人。すみません、飲み会の前にちょっとだけ引っ張りだしちゃいました。
それから治療してくれた同じお店の先生方にも感謝です。足の骨が折れても血を流してようと、お客さんのために出勤するのがプロだとお話しくださる師匠。すごいなー、軟弱者の私がこんなスポ根みたいな世界に紛れ込んで毎日よく生きてるなあと思う訳ですが。歩くことも歩けないこともほんの少しの視野を変えただけで、どちらにも行ける。生きることも同じだ。人の痛みの治療をするなんて大それたことをしようと思っていなかった私。人が立って歩くことはすごいことだ。歩けなくなること、歩くのが怖くなること、それは誰にもやってくる。歩けなくなって、もう一度前と同じように歩くことを思い出したり、新しい発見をしてもらうこと、そんなお手伝いが出来たら良い。「やっぱり良くならないんだ」そうつぶやく人もみてきた。そんな悔しさもある。それでも前を向いて歩く。本当にそれは最終的にはじぶんでしかできないし、孤独な作業だ。しかしまわりを見ればたくさんの人が同じように歩いている。どこまであるけばいいのかと、この道は間違いないか、他の道もあるかと考えながら。

歩く

アレクサンダーテクニークのレッスンに行くと、「今日は何をやりましょうか?」と、先生の方から聞かれます。とりたててやりたいことがないと、立つ、座る、歩くといった日常生活で行っている基本の動きをしてみることも多いです。ここ1、2年の間私は整体のお仕事を初めて数ヶ月経った頃から出て来た膝の痛みの問題と、もっとうまくなりたいなあということ、接客を含める人間関係についてもテーマとしてレッスンの題材にして来ました。
膝は整体の先生にも治療していただいたし、毎回のレッスンで可動もよくしてきました。それでもここ2ヶ月ぐらいレッスンをお休みし、整体について自分の克服する点を自覚して修正しようと努力して来たのです。1週間前のこと、畳んだ施術儀を棚にしまい、高い位置にある棚なのでいつも乗っていた椅子から勢い良く足を突いて降りてしまいました。どうも膝の裏側の筋肉が衝撃を受け、歩けなくなってしまいました。2人の先生に診ていただいて、なんとか歩けるようにしていただき、タオルとテープで簡易サポーターをして帰りました。それから数日間、一歩一歩が普段の何倍か時間をかけてなんとか通勤。(もちろんお休みもいただきました)少し良くなってからは、場所によっては椅子に座っての施術対応もさせていただいて、まわりに迷惑かけながら、新鮮な体験を日々させていただいています。歩けない人がどんな心境になるのか、普通に歩けることがどんなに快適なことなのか、一歩一歩しか歩けない、この大地や床を階段を思うとき、環境と共に生きている存在であること、治療をして下さる整体士の先生たち、御客様、また会える日を心待ちにしているアレクサンダーの先生や友人のことを考える。こういう日の為にアレクサンダーを習って来たんじゃないのかと思い出す。「頭を動けるようにして、身体全体がついてくる。」「股関節が動けて、爪先の方向に膝が前に出る。」こんな言葉を思い出しながら、一歩一歩あるきます。痛みや恐怖で身体が強ばっているとき、無意識に頭を脊椎に押し付ける動きをしてしまう習性が人にはあるそうです。これでは運動神経の働きを妨げてしまいます。この足腰がどうにもならないとき、「頭が体全体の上でバランスをとっている。」と考えることができると、身体が軽くなり、関節がいつもより楽に動かせることができるようになります。不器用でこんな事考えて動いてます。どちらにしろ整体治療も骨盤調整ベルトにもお世話になりそうです。そしてちゃんと普通に歩けるようになった頃には何か上達しているようにと、思いを膨らましていようと思うのです。

ネコネコ

 整体のお仕事をしていると、御客様からよく「猫背を治したい。」「猫背が気になっている。」というご相談を受けます。背中に重い物を背負っているような辛さ、なんだかすっきりしない感じ、よくわかります。何を隠そう私自身が数十年猫背と言われながら生きて来ました。他の整体の先生に診ていただいたところ、私の場合、「多分中学生くらいの歳以前にこの猫背といわれる骨格が形成されてしまっているので、治るモノではない。だから定期的なケアが必要。」と言われました。なんだかがっかり。自分の中に人生の物事全てが猫背か猫背じゃないかで決まるかのようなそんな思い込みがあるからがっかりするのだと思います。イメージとしては勝ち組より負け組で、いつも「こんなわたしですみません」なんてペコペコしている感じ。そして一人になれば「好きで猫背になったわけじゃないんだ。」とすねている。そんなつまらない人生です。堂々巡りです。
しかし猫の背中ってかわいいです。しなやかな動きはあの丸くなり、ぐーんとそらすこともできる、あの背中の動きです。猫背を気にされている方は、これではいけないと、日常で気をつけていらっしゃるのか、逆にしなやかさが失われてかたまってしまっている場合も多いのではないかと感じます。もちろん長時間のデスクワーク、下を向いての作業によるものもあるかもしれません。しかしもともと人間の骨格は、胸椎部分にはある程度の丸みがあるようにできていることをもう一度思い出しましょう。大切なのは、頭を首や背骨に押し付けていないかなのではないでしょうか?「気をつけ」をして下さいと言われると、おなかを突き出してそりかえってしまう人は多いです。礼儀は大切。ですが言葉によっては身体を無意識に硬直させてしまうことも多いです。そんなことに気付けることが弟1歩。じっとしていても身体はいつも動いています。しなやかな猫首、猫背をめざしたい。開き直りかポジティブなのかわかりませんが、そんな考えもありだと思います。

整体のこと、アレクサンダーのこと [ボディワーク]

なぜ私は整体の仕事をすることになったのか、ということについて今日は少し書いてみたいと思います。それとアレクサンダーテクニークについても。
小さい頃からあまり身体が丈夫ではなかったのです。運動音痴でした。短距離走はだいたいビリ。マラソン大会で、途中で心臓が痛くなり、ビリに近い順番でゴールにたどり着くとたいてい、よく完走したね。という暖かい拍手で迎えられていたのです。
スポーツ、健康というキーワードからほど遠い人生。それでも身体を動かすことは嫌いではなかった。猫背で、気管支があまり強くなくて、いつもなんだか身体が歪んでいる気がしていて、じっとしていられない。なのでダンスなんかは好きでした。そして踊りを見るのも好きでした。20代前半の時に観たニューヨークから来日した女性3人での超即興のダンスパフォーマンス、その途切れることの無い動きの美しさと自由さに涙したことを覚えています。動けない辛さと、その逆に動けている時の喜びを知っていたのだと思います。多分その感覚が、今の仕事をしている元々のきっかけだと思います。その後親に反発して東京に出て一人、自分にしか出来ない芸術表現をしようと心に決めていました。色々な人に出会って別れて再会して、また別れて、そしていつもお金がぎりぎりで。限界も感じて、数年前に表現活動を休止して、その頃虜になっていた自家製酵母の研究を仕事にすることに専念しようと思っていたところ、そのプロジェクトが思っていたより短期で終わってしまった。どうしようかと思い悩んでいた時に見ていた求人誌に載っていた所に試しに研修を受けてみようと来てしまったのが間違いの始まり。ひとり一人の方の身体のケアにたずさわることを、まがりなりにも志してしまったのです。
このブログを書くことになったきっかけであるアレクサンダーテクニークについは、ダンスをしている友人からも聞いていて、身体上のトラブルがあった時に個人の先生にアドバイスを受けるつもりで通ったことがありました。現在お世話になっている整体院さんとは何の関係もないのですが、やはり技術習得と、向上途中の身体面、精神面でつまづいていた2年前のある日から、ひょんなきっかけでもう一度このアレクサンダーを学んでみたいと思って続けていて、ずいぶん助けられました。整体の先輩からは遠回りだと言われます。それでもスポーツ体験の少ない私にとって、本当に助けになっています。私にとって、身体の使い方のヒントをくれて自分で考える方法を学べる場所。そうこうしているうちにもう50歳。歳はどんどんとっていくけれど、若い頃に比べるとおかしなことに、健康になっています。整体院ではまだまだまわりの先生の力を借りることの多い身で大きなことは言えませんが、志は大きく持ちたい。失敗すると身を小さくしてしまいがち。「人は誰でもそのままで素晴らしい大自然の設計図を持って生まれた。」「あなたはもっと大きな存在だ。」アレクサンダーテクニークは生きる技術と思えます。そして困ったことに、反発してしまった整体院の上司である先生が、全く同じ意味のことを繰り返し別の言葉で自分に言い聞かせてくれていたことに気がつき始めています。 周囲の状況は自分の物の見方で変わってくる。「ありがとう」そしてわたしは目の前に広がる2つか3つの道のどれかを選択する時に来ているようです。ずいぶん遠くまで歩いて来たように思っていたのに、全ては始まったばかりです。
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鐘の音

 3連休中のなか日である日曜日、駅前の通りで店のチラシを蒔いていると、歓声が聞こえた。
そう、結婚式場の中から聞こえる。式場の門の外から少し幸せそうなカップルや、それを祝福する人たちが見えた。
しばらくすると鐘がたくさん鳴った。多分12回だ。日中まだ暑く照りつける日射しに多くの人々の表情は険しかった。でもたまに幸せのお裾分けをしてもらった人たちが笑顔で通る。少し先には大学病院がある。目的があって道を歩いている人にとって私はいつもみなさんの行く手に立っていて、時々歩きながらいらない紙を渡そうとする、白い服を着たおばちゃんです。「こんにちは、整体です。」とにかく声を出していると、手を出してもらってくれる人がいる。「ありがとうございます。」これも大切な仕事だ。時々孤独な行為に思えてくる。しかし色々な人に出会える。顔見知りが出来てくる。人に興味がわいてくる。この街が見えてくる。視野が広がってくる。私のチラシ撒きのペースは早いとは言えない。しだいに良い風も吹いてくる。厳しい夏ももうすぐ終わりに近づいている。祝福の鐘が鳴って、人が懸命に生きているこの街で自分も生きている。

身体を調える

 母が抗がん剤の治療中(どうもこの治療が母の身体には合わなかったようです。)、倒れて歩けなくなってしまってから、半年近く経ちました。月に一度は離れて暮らす私も、病院の検査の付き添いに出かけています。一時は皮膚がガサガサで、筋肉も硬くなり、血液検査の時に看護士さんが注射の針をうつ場所を探すのも大変なくらいでした。最近では肌の状態も少しずつ良くなり、先日は自分一人で立って車いすに乗れたのです。
一緒に暮らす妹と、時々来てくれる弟のおかげもあってのことで本当に感謝するばかり。みんなに迷惑をかけてまで生きていたくないと再三言っていた母でしたが、みんなにとっては助けずにいられない。特に親不孝だった私には親孝行のチャンスなのです。
診察が終わって、病院を出た所にあるレストランで母と2人で食事をしました。以前は食べた物も胃が受け付けないこともありました。けれどこの日は頼んだオムライスをおいしそうに食べていたのです。糖尿もあったので、食事制限について聞くと、もうインシュリンを打たなくても良くなったし、歩けるようになるにはもう少し動物性のものも食べていいから、体力をつけた方がよいと言われたそうです。
自力で立って歩いてそしてテーブルを囲んで家族とあるいは友人とご飯を食べる。
そんな行為がなんて特別で素敵なことなんだろうと思えてくる。私が子供の頃、母の作ったオムライスが大好きだったことを話すと、もう少し歩けるようになったら料理を作りたい。母はそんな思いを話してくれました。
このレストランでは季節の地物野菜を使って、きれいな彩りの料理が出されます。私が頼んだ季節の野菜のパスタのオリーブオイルとトマトを使ったソースが、お皿に残って金色とピンクのきれいな色に見えました。ガラス張りの窓からゆれる大きな木が見えました。身体を調える。身体を整えるは整体だけど、この調えるは、全体のハーモニーですね。病気であっても完全に治るというそういう状態とは違っても、いつも繊細にゆれ動いてこの瞬間を一緒に生きている。人は光のような存在だ。そんなふうに考えたい。

バタフライ

人の背中の筋肉は表面だけでなく、何層もしっかりと重なって、普段立ったり座ったり、日々の様々な活動をする脊椎を支えてくれています。最も奥にあるのがいわゆる体幹の筋肉、インナーマッスル。ある程度の深みに圧を加えることで、緊張した筋肉をゆるませ、神経的な疲れをとることができます。
30キロから40キロくらいの体重を、うまく掌や指に乗せて深みに入るには、まずファーストタッチが大切。羽のようにふわっと、筋肉と対話する瞬間があって初めて入って行ける。こつがなかなか摑めなくて、摑めたと思うときがあるけれど、私自身の体重が46か47キロ程度。7割か8割の体重を乗せるにはバランス感覚が必要。どの瞬間も良い対話ができているか、ここがむずかしいところであり、探求する面白さです。
まさに体幹の筋肉をどのように効率よく使えるか、これはアレクサンダーテクニークでは、「頭が脊椎の上でバランスをとる」ことで、センサーである手や指に指令を与えることを練習するわけです。腕と脊椎と脳が、うまく協調し合い、お客さんの身体の情報を捉えて適切な圧を加えてじんわりゆるませる、そんな練習を続けてきて、やっと最近なんだかキラキラ脊椎全体が、そうお客さんも自分も脊椎全部が、まわりの状況全部も含めて活性化しているような瞬間に出会うことがあるのです。
バックミュージックのピアノの響きと共に、自分の肩甲骨に羽が生えて蝶になっている感覚、しかししっかりと柔らかい筋肉の中の暖かい体液に働きかけている。滞った通路にスペースを作っている。一瞬そんな感覚になり、「これなんだ。」と思うと涙が出て来た、だけど「感覚はあてにならない」酔いしれているわけにはいかない。いつも新しい関係性とであうことが大切なんだと思う。

滝の流れ [ボディワーク]

こんにちは、整体の仕事を始めて3年が過ぎようとしています。技術向上に悩む日々、私の場合はアレクサンダーテクニークがとても頼りになりました。まだまだ行きつ戻りつなんですが、頭と脊椎の協調性を思うと身体の使い方、習慣的な思考が変わる。そんなきづきを書きとめようと思います。
動きの中での解剖学を知り、思いが身体も状況も変えること。使い方を変えると、よけいなことをしなくなり、滝のように必要な情報が流れ込んでくる。
アレクサンダーテクニークは、楽器の演奏を変えますが、人の身体も楽器のように思う。

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